道の駅について

「車の駅」の猫バス

酒井さんより

いつも美しい花の写真や、貴兄の墨絵や、また時には珍しい写真をメールで送って戴きまして、ひと時の安らぎを得たり、また物思いに耽ったりしてきておりましたが、この度は「道の駅」の写真をお送り戴きまして、有難うございました。この付近しか出歩かない為に、南信州のJRの駅がこのように素晴らしい駅に改築されていたとは知りませんでした。

私の生まれ育った故郷には古びた駅がありました。子供の頃駅に行って乗り降りする人達を眺めたり、駅に入ってくる列車(蒸気機関車ディーゼルの列車)を見たりすることは大きな楽しみでした。従って如何にも古ぼけてくすんでいたのではありますが、郷愁が沸いてくるものでした。

その後トヨタに入って十数年後でしたかに故郷へ行ってみたところ、駅がすっかり近代的になっていて、東京辺りのJRの駅と変わらない変貌を遂げておりました。駅構内にキオスクなどの売店ができ、確かにきれいにはなっておりましたが、私には一抹の寂しさがありました。昔の蒸気機関車の煙でくすんでいた天井や、プラットホームへの木製の音のする階段が何とも懐かしく思われたのでした。

「道の駅」もよそ者の私が行けば、きっと感心して見ることでしょうが、土地のお年寄りには寂しさを感じている人たちもいるのではないかと想像します。

平成16年6月25日 

酒井さんへ

「道の駅」というのは、国道や少し大きめな地方道で運転者が一休みするために設けられた施設で、高速道路のサービスエリアかパーキングエリアのようなものです。

詳しいことは知りませんが、多分国土交通省助成金補助金のようなものを付けて地方の活性化と役人の天下り先確保の目的で造らせているのではないかと思います。

財政力豊かな愛知県には非常に少ないのもその表れでしょう。実は豊田市にも勘八峡に出来ているのですが、猫バスが一台置かれていているのみで、地面の舗装もされてない日本一みすぼらしい道の駅です。正規の申請と認可によるものでないのか、道の駅の一覧表には掲載されてもいません。中部地方の道の駅はつぎでご覧ください。

中部の「道の駅」 http://www.cbr.mlit.go.jp/michinoeki/michinoeki.html

「道の駅」とは?

    「道の駅」は、誰もがいつでも気軽に利用できる一般道路沿いの休憩施設です。
    「道の駅」は、駐車場・トイレ・公衆電話の利用が24時間可能です。
    「道の駅」は、個性ある様々な施設やイベントがあります。
    「道の駅」は、最新の道路情報や観光情報を提供しています。
    「道の駅」は、駅長や駅スタッフが優しく迎えてくれます。

 ◎ 道路利用者のための「休憩機能」
 ◎ 道路利用者や地域の方々のための「情報発信機能」
 ◎ 「道の駅」をきっかけとした町と町とが手を結び合う「地域の連携機能」

以上3つの機能を有する施設。

 いろいろな場所にいろいろな「道の駅」があります。
 現在、「道の駅」は全国に743箇所、中部に91箇所登録されています。

<追記>
 豊田市にも「道の駅」があると書きましたが、その後に立ち寄って確認したら「車の駅」でした。道理であんなみすぼらしい施設しかないのでしょう。猫バスの中はそば打ちの教室になるのだそうですが、誰が行くのか疑問に感じました。

                                                                                                                                                          • -

澤井さんへ

 加藤唐九郎の皿、拝見。澤井さんは持ち物も大違いですね。そのうちに国宝級の価値が
出るのではないでしょうか。

 私は陶磁器に関して何の知識もありませんが、機会学会東海支部の主催する講演会が名城大学で開催されたときに加藤卓男さんという方の話を聞いたことがありました。

 以下は、そのメモを友人にメールした内容と一部の人からいただいたコメントです。

                                    [発信]1996年3月15日 
       機械学会東海支部特別講演会のご紹介       
                                   
 季節の変わり目ですが、皆様お元気のこととご推察申し上げます。       

 この度、八事の名城大学で表記講演会が開催されました。昨年の今頃、同じ会の主催で
鵤(いかるが)工舎の小川三夫さんという方の「木のいのち 木のこころ」という話を興味深く伺いましたので、いつもそばを通りながら、立ち入ったことのない会場であることの興味もあって聞きに参りました。(年休を取って)

 陶芸にはまだ関心の薄い小生にとって、さほど面白いという感じはありませんでしたが
考古学者のご苦労と成果などの一端が理解できたように思います。講師の加藤卓男さん、
小生の予想に反して大変能弁な方で筆記能力不足からとても追随できませんでした。従って、実際の話とはかなり異なった浅薄な表記しかできていませんが、私のいつもの決まり文句「たまには場違いな話も気分転換に良いのではないか」ということで紹介させていただきます。

         日本機械学会東海支部 第45期総会特別講演
         シルクロードと日本文化
         講師:陶芸家 人間国宝 加藤卓男
         1996年3月8日(金)14:00~15:00
 名城大学理工学部11号館特別教室

[講師紹介]名大 太田教授
 加藤さんは多治見のお生まれで、長年愛知県との県境いに住む神戸窯の後継者という立場にありながら、伝統を受け継ぐことに反逆していろんなことに挑戦されました。

 原爆被爆体験により体調の悪い時期もありましたが、フィンランド政府の招聘により現地の工芸美術学校に赴き意匠と技術の伝承・指導をされるなど国際的な活動にも意欲的に取り組んで来られました。

 私も多治見の人間ですが、狭い世界でとかく足を引っ張り合うといった土地柄に生を受けながら、加藤さんは実に活動範囲が広い。中でもペルシャ陶器ラスター彩の研究と再興の功績は目覚ましく、昨年5月には人間国宝にも指定されておられます。

 このラスター彩というのは、金銀の使用禁止の下で開発された技法で400年続いたが、18世紀蒙古の攻撃で衰退していました。これを再興されました。また、宮内庁からの委嘱による正倉院三彩の復元製作にも成功しておられます。

 先日、ある出版社の人が来て今日の講演会のポスターを見て、「シルクロードと日本文化が機械学会とどう関係するのですか」と尋ねました。私も答えようがありませんでしたが、加藤さんの話を聞かれたら分かるのではないかと思います。

[聴講しての印象]
 高名な陶芸家である加藤氏のことを、私は恥ずかしながら全く知らなかった。きっと仙人のような老人が現れ、話し下手でボソボソ語ることになるのではないかと予想していたが、それは大違いだった。

 年齢の紹介がなかったが60代であろう。背広姿、どこか一流企業の役員かといった風貌の方だった。話しぶりは、弁舌爽やか熱気を帯びた早口の語りでとても書き留められそうもない。テープに録音もしておいたが、それを聞きながら補足するのも大変なのでメモしえた範囲に大幅な推察を加えてレポートする。

[講演概要]
 只今、太田先生から丁重なご紹介を戴きました。本日は機械学会の学者の先生ばかりの中で物作りの 職人の私の話を聞いていただけるということは大変光栄であり、恐縮しております。

 1時間で話せというのは、浄瑠璃でいえばサワリしかやれない。2時間くらい、ゆっくり話したいと 思って講演の要旨を作ってきましたが、半分も話せないと思います。

1.砂漠の中で
 テレビができてシルクロードの秘境を競って映すようになり、茶の間で眺められる良い時代になりました。私もそういうものを見た印象から恋とロマンに満ちた桃源郷というように感じていましたが、現地に入ってみると甘い恋どころか炎熱地獄。美女ではなく、蝎(さそり)の大群が待ち構えていました。そして噛まれてしまいましたが、現地人に蝎を揚げて食べることを教えられ、仇を討つことができました。

 車のボンネットで卵焼きができる温度。目だけ出す衣服を着ていないとやられてしまう。こんな環境に1年もいると贅肉は取れ、目は落ち込み痩せてくる。こういう世界でも住めば都、悪くはないのです。羊の肉など現地で食べるとこの上なく美味しく食べられます。そして私を麻薬のように包んでしまったものは何だったでしょう。

2.異民族、異文化の接合・融合
 日本文化の源流は何かを考えるとき、例えば日本の焼物に織部がありますが、実は織部にもその源流があるのですね。それを訪ねて、蟻地獄に入ったような状況で25年間が過ぎました。そして水が流れるように西から東へという文化の流れがあることを感じました。日本はその恩恵を受けてきたのです。日本固有といわれる文化も殆んど西方からの影響を受けています。

 「文明とは信号機を作ること、文化とは信号を守ること」と司馬遼太郎さんが表現されたが、昨年パリで国際シンポジウムがあり、京大の〇〇教授と一緒に参加したらある人が「文化とは、交流が一番大事。異国との交流が大切である」と話され意を強くしました。日本は異文化、異民族、異教徒との衝突があまりないままの状態に長く置かれていたが、稲作、麦作の文化が入ってきて縄文式文化から弥生式文化に移る頃から異国からの全てのものに対する畏敬の念が日本人の心の隅に出来てきたのではないかと思う。それまで日本では自然崇拝のみであったが仏教の虜(とりこ)になり瞬く間に広がっていった。それと共に建物、工芸なども伝わり広がった。

 奈良朝という初めての中央集権体制は、唐の文化を如何にして取り入れるかに腐心した。安土桃山という短い30年間は日本文化が華開いた時期でした。

3.絹の道、東西交流の道
 東西交流は古くから間断なく続いてきたが、シルクロードという言い方は、わずか100年前につけられたものである。中国西北部ウイグル地方で一番多く取り引きされたものが絹であった。今のシルク ロードは狭い道ではない。“薬草の道”であるという先生もいる。仙丹という薬草があり、何にでも効くと言われた。しかし、一つ落とし穴があった。水銀が微量入っていて、その中毒の為に当時の皇帝が30〜40代で亡くなって
いる原因とされる。揚貴妃の塚の土を飲むと美しくなれるとして皆が盗るため傾きそうになったので、今ではレンガで固めている。
                                
何といっても中国である。中華思想を持ち、周辺の国々を南蛮、西戎北狄、東夷というような呼び方をしていた。西方は自分たちより一段低いものと見ながら、憧れを抱いていた。

 642年、南のアラビア半島からモハメッドが神の啓示を受けてペルシャと大決戦をして大勝した。ペルシャの高貴な連中は中国の長安に亡命することになった。 王族貴族、楽人、楽団が持てるだけの財宝を持って逃げた。その流麗な姿に長安の人々はびっくりする。中国人の血は踊り、卒倒しそうになったという。そういう連中が入ってきてファッションを一新する。腕に覚えのある者は物を作り始めた。

4.白瑠璃碗の謎
 私は正倉院三彩の復元の委嘱を受けました。正倉院の中に入ると、2万点の御物の1/3 は西アジアの砂漠から来ている。日本で出来たものが1/3 、長安の都でできたペルシャの物が1/3 である。これは遣唐使による交流で持ち帰られたものである。彼等は帰ったら土産を持って聖武天皇のところへ行く ことになっていた。舶来好きの元祖だった模様。光明皇太后は大仏を造った。

 外国の美術館、博物館は、大英でもルーブルでも植民地政策の時期に略奪してきたものばかりである。イスタンブールにトスピカ宮殿があるが、それも盗んだり略奪したものばかりである。

 正倉院の御物は、それが一つもない。金銀財宝がなくボロキレばかりで泥棒も4件しかなかった。内2件は落着し、2件が迷宮入りしている。判ったうちの一件は、管理人の僧侶がネコババしようとしたものだった。そういうことで、外国でも最近、ここの御物に注目し始めている。

 20年前に深井信二という先生がテヘランでの発掘の時に骨董屋へヒヤカシに行って、土間に変な物が転がっているのに気づいた。金属でもない、陶磁器でもない、少し削って見たらガラスだった。「これは幾らか」と聞いたら、「そんな汚い物は誰も買わない。只でやるから持っていけ」ということだったが、10ドル出して買ってきた。それが正倉院にあるものと同じだった。松谷俊雄という考古学者にどこから来たかを調べさせたら、遠くの墓の盗掘品であることが判った。

 イラン政府の許可を得て半年掛かりで発掘することにした。白瑠璃碗という立派なものがここで出た。ハリメジャンという都から白瑠璃碗が出ている。ラスター彩は偶然の発展で出来たものではない。鳥も通わないような土地で白瑠璃碗ができる筈がない。

 1980年、オックスフォード大学とシカゴ大学から発表されたのであるが、キシュから王様の墓とかペペという土盛りがありガラス工場の跡が見つかった。ハリメジャンから白瑠璃碗が多く出たが、それはキシュで作られたことが考えられる。相当量産されて、日本にまで伝わったことが考えられる。そう考えて、白瑠璃碗の謎が解けてきたように思います。

 今日はスライドを100枚用意したが、その中から30枚、発掘の様子をお見せします。

 これは正倉院です。中は今、空っぽです。昭和49年に1,300年の歴史のあるところですが、湿気や防火の装備がないので、西の倉庫を造った。2万点の御物を見ると、西方から来たものが多い。

 これは銀の杯です。五弦の琵琶、いかにもシルクロードを渡ってきたという感じが伺われます。これが白瑠璃碗です。8.5寸、18面カットの4段重ねとなっています。これは葡萄酒を飲むのに使った杯と言われています。当時、日本では陶工が粗末な焼物を作っていました。

 本日は、白瑠璃碗に絞った話をしました。時代時代に新しい文化が開けて来たと 思います。あと5分質問があればお受けします。

[質問]
 織部のことが少し出て、ご説明がありませんでした。これも西方と繋がりがあるのですか。(質問者は髭面の男で、芸術家風でもあった。そして昨年、豊田工大での講演会でも小川三夫さんに只一人質問した人物だった)

 織部で今まで無かった技術、文様が出てくる。日本では筆で模様を描くことはなかった。ペルシャで、これが出る。13,000キロ離れた土地で生まれたものが、チャムバ、安南、今のベトナムを経て 伝わったのではないか。ペルシャと日本の間にベトナムがある。ハノイ、ハイフォングリーン、ダナン、ホイアン日本人町などに71隻の朱印船で文物が往来した。

 古田織部は堺に住んでいた。先見性のある人でした。

[質問] 材料は日本で見つけたものですか。
             
 それは日本です。ペルシャオスマントルコの時代です。ローマ帝国オスマントルコと戦い負けて滅びた。以後、軍備と文化の両立が必要という見方がされるようになり、今日まで軍事大国は文化面にも力を注ぐようになっています。                                                                   以 上

講演会メモ「シルクロードと日本文化」をご覧戴いた方からのコメントなど

石松良彦さん 3/18  
 講演会のレポートありがとうございました。興味深く読ませていただきました。それを見て、講師の方が勘違いしておられる箇所を2箇所、否1.5箇所ほど気付きましたのでお知らせします。

 ペルシャオスマントルコの支配を受けていません。また、ローマ帝国はとっくに滅びており、この 時代は東ローマ帝国でした。この地方には出張した機会に勉強していますから、少々詳しいのですよ。

浅井正幸さん 3/18
加藤さんの講演、興味を持って読みました。ロマンを感じると同時に、暖かい何かを感じました。特に642年、南のアラビア半島からモハメッドが神の啓示を受けてペルシャと大決戦をして大勝したときにペルシャの高貴な人々が長安に亡命して中国人をびっくりさせ、ファッションを一新する下りは説得力があります。職場の仲間で 関心のありそうな数人にコピーを回覧させてもらいます。

黒沢正義さん 3/19
加藤氏の話は、確かに日頃の我々の話題とは全然違った世界の話で、先日亡くなった司馬遼太郎のことまで出てくるので面白く読ませてもらいました。現在の日本の いろいろな社会現象(政治も含めて)や大統領選を始めとした米国人のやり方、特に他者の非難に満ちた社会を見ると、文化社会って、ほんとに幸せなのかと考えてしまいます。司馬流に言うなら、文化は数千年前と全然変わってないのではないかとさえ 感じられます。

久しぶりに目を広く開くに良い材料を提供して頂き、ありがとうございました。


<追記>
 私の出身校(高校・大学)の後輩であり、同じ職場の後輩でもある大坪さんは電話で誤字の指摘をしてくれました。私が冒頭部分で「神戸窯」と書いているのは「幸兵衛窯」の間違いということでした。

 陶磁器に関する素養の無さに聞き取る能力の無さが重なって、間違った記載をしてしまいました。それにしても中学の先生方は通知表の中に的確な評価をされていたものです。国語ではいつも「聞き取る能力」の項が1ランク低く付けられていました。夢多き時代、授業中もボンヤリ空想にふけって先生の話を聞いてないことが見透かされていたのかも。

 以下は、今回インターネット検索して載せるものです。

幸兵衛窯(こうべえがま)  
http://www.to-no.com/simple/koubeigama.html
  店名 幸兵衛窯(こうべえがま)
住所 多治見市市之倉町4-124
TEL 0572-22-3821
開館
時間 平日,第1,3土=9:00〜17:00
日祝,第2,4土=10:00〜17:00

休館日 ホームページで御確認ください
 
 幸兵衛窯は、1804年(文化初年)初代加藤幸兵衛により、
開窯され、美濃有数の窯元として発展してまいりました。
現当主の人間国宝加藤卓男はペルシア技法を駆使した作品を
制作し、その長男である七代加藤幸兵衛は独自の作風を展開しています。
また、30余名の熟練職人を配して品格ある和食器も生産しております。
ご来窯のお客様には3つの展示館の見学とお買い物をお楽しみいただけます。

セラミックアートギャラリー  http://www.iijnet.or.jp/izw/gallery/takuo.html
加藤卓男人間国宝
17世紀ごろ技法がまったく途絶えたペルシャの名陶ラスター彩を現代に蘇らせたのをはじめ、日本最古の施釉陶、正倉院(奈良)三彩の復元にも成功した名匠として広く知られています。

カバハウスの展示が始まった

sbekay2004-07-06

今月1回目の水墨画教室練習日の今日、26点の作品をロビーに展示した。私のは右端から3番目。仲間たちは「よく似ている。そっくりだ!」と言いながら好意的に見てくれたが、私自身としては絵の向かって右側の二人は失敗だった。

一柳先生の奥様の母親が亡くなったそうで、先生はお休みになり、自習といなった。本気で自習に励んだのは1/4位だった。

はてなダイアリーへの登録挨拶

こんな水墨画を描いています

週刊アスキー別冊(6/29号)「300万人のプログ大全」にてこのプログを知りました。あと1ヶ月少々で66歳になる老体には新しいものを理解し、その特徴をうまく活かすだけのノウハウ習得がなかなか難しいのですが、困難に立ち向かう気持ちだけは20代の若造のときと変わらないと自負(誤解)しています。Photo Gallary KAYというHP http://www.hm6.aitai.ne.jp/~kay/ と関連付けて続けようと思います。